東京地方裁判所 平成7年(ワ)19239号 判決 2000年5月19日
原告
矢吹寛
原告
根岸重次
原告両名訴訟代理人弁護士
内野経一郎
同
仁平志奈子
同
春日秀一郎
同
浦岡由美子
同
中田好泰
同
栗原正一
同
遠藤幸子
原告矢吹寛訴訟代理人弁護士
田渕朋子
被告
山中千織
被告
連帯労働者組合
右代表者代表者
相蘇道彦
被告
矢吹闘争支援対策会議
右代表者
長谷川幸枝
被告3名訴訟代理人弁護士
北村行夫
同
中西義徳
同
市毛由美子
同
樋口由美子
同
松本明子
同
島津秀行
右当事者間の債務不存在確認請求事件について,当裁判所は,平成12年2月25日に終結した口頭弁論に基づき,次のとおり判決する。
主文
一 原告らの,被告連帯労働者組合に対する,不当労働行為による不法行為に基づく損害賠償債務及び平成7年4月24日締結の協定違反による債務不履行に基づく損害賠償債務が存在しないことを確認する。
二 原告らの,被告山中千織に対する,人権侵害行為あるいは不当労働行為による不法行為に基づく損害賠償債務及び平成7年4月24日締結の協定違反による債務不履行に基づく損害賠償債務が存在しないことを確認する。
三 原告矢吹寛の,被告山中千織に対する,平成7年7月24日から平成12年2月25日までの賃金支払債務が存在しないことを確認する。
四 原告らの被告矢吹闘争支援対策会議に対する訴えをいずれも却下する。
五 原告矢吹寛の被告山中千織に対する賃金支払債務不存在確認の訴え中,平成12年2月26日以降の債務の不存在の確認を求める部分を却下する。
六 訴訟費用中,原告と被告矢吹闘争支援対策会議との間に生じた費用を原告らの負担とし,その余を被告連帯労働者組合及び被告山中千織の負担とする。
事実及び理由
第一請求
一 原告らは,被告連帯労働者組合及び被告矢吹闘争支援対策会議に対し,不当労働行為による不法行為に基づく損害賠償債務のないこと及び平成7年4月24日締結の協定違反による債務不履行に基づく損害賠償債務のないことを確認する。
二 主文二項と同旨。
三 原告矢吹寛は,被告山中千織に対し,平成7年7月24日以降復職又は退職までの,賃金支払債務のないことを確認する。
第二事案の概要
本件は,会計事務所の経営者とその元従業員である原告らが,被告らに対する債務が存在しないことの確認を求めている事案である。
一 争いのない事実等
1 当事者
(一) 原告矢吹寛(以下「原告矢吹」という。)は,矢吹会計事務所を経営する者である。
(二) 原告根岸重次(以下「原告根岸」という。)は,本訴提起後の平成8年3月まで原告矢吹に雇用されていた元従業員である。(退職時期につき<証拠略>)
(三) 被告山中千織(以下「被告山中」という。)は,原告矢吹に雇用されるパート従業員である。
(四) 被告連帯労働者組合(以下「被告組合」という。)は,地域を基礎とする個人加盟の合同労働組合である。
(五) 被告矢吹闘争支援対策会議(以下「被告対策会議」という。)は,被告山中と被告組合を支援する目的で結成された集団である。
2 原告矢吹は,平成6年8月31日,被告山中と,同じく従業員であった訴外今野純子(以下「今野」という。)を懲戒解雇した。
3 被告山中と今野は,被告組合に加入し,同組合と原告矢吹が団体交渉を行った結果,原告矢吹が同年10月31日に被告山中に対する解雇を撤回し,被告山中は同年11月4日に復職したが,原告根岸から嫌がらせを受けたとして,翌日からは就労しなかった。なお,被告組合の主たる担当者は訴外石橋新一(以下「石橋」という。)であった。
4 原告矢吹と被告らは,更に団体交渉を行い,平成7年4月24日,次の内容の協定(以下「本件協定」という。)が締結された。(具体的条項につき<証拠略>)
(一) 原告矢吹は,今野及び被告山中への懲戒解雇が,法的に瑕疵がある又は違法なものであったことを認め,撤回し謝罪の意を表する。
(二) 原告矢吹は,被告山中がパート従業員の地位を有することを確認する。
被告山中は,平成7年5月8日に就労し,従来どおり原則としてコンピューター入力作業を行うものとする。
(三) 原告矢吹は,解雇の撤回について更に関係者に周知徹底する。原告矢吹は,前項の就労日に,所員に対し,解雇の撤回を改めて告知し,被告山中に十分な発言の機会を与える。
(四) 原告矢吹は,今野を解雇前の地位に戻す。原告矢吹及び被告組合は,今野が,平成6年9月末日をもって予定どおり自主退職したことを相互に確認する。
(五) 原告矢吹は,被告山中への本件解雇がなかったものとして,その雇用保険料を負担する。
(六) 原告矢吹は,被告組合に対し,平成7年5月2日限り,解決金として120万円を郵便振替の方法にて支払う。振替手数料は原告矢吹の負担とする。
(七) 原告矢吹は,被告山中を含む所員の労働条件の向上に努めるほか,労働組合の意義を十分に認識して対応する。
(八) 原告矢吹と被告組合,今野及び被告山中間には,本件解雇に関し,他に何らの債権債務のないことを相互に確認する。本協定に定めのない事項については,互いに誠意を持って協議・決定する。
5 被告山中は,本件協定に基づき,平成7年5月8日に矢吹会計事務所に復職したが,同年7月24日にストライキを通告し,以降は就労していない。なお,被告山中復職当時,原告矢吹に雇用されていた従業員は,原告根岸,訴外吉田京子(以下「吉田」という。),訴外小嶋某(以下「小嶋」という。以上は正従業員),訴外笹村知香及び訴外新藤某(以上はパート従業員)であった。
6 その後,被告らは,団体交渉を求めるとともに,原告らに対し,金員の支払等を求めている。
二 当事者の主張
1 被告ら
(一) 本案前の抗弁
本件訴えは,裁判所法3条の定める法律上の争訟に該当せず,又は確認の利益が認められず,司法審査の対象にはならない。よって,本件訴えは却下されるべきである。
(1) 労働基本権の侵害
憲法28条は,労使関係に関する事項は,労使による自治的な解決に委ねることを前提に,労働者の団結権,団体交渉権,争議権等を認めている。本件で争いになっている事項の中核をなすものは,不法行為,債務不履行であるが,いずれも労働契約,労働協約等に基づいて発生したものである。
このような事案の解決法としては,団体交渉による労使の自治に基づく方法と司法判断による方法との2つの方法があるが,労働基本権を有する労働者側が司法判断によるべきことに同意しない限り,裁判所はその労使の自治に介入すべきではない。これは,裁判所が労働基本権を否定する結果を招来するからである。
不法行為の場合でも,労使の自治に基づく場合には,団体交渉,争議権の行使,ロックアウト等,労使の力関係,交渉力により,最終的な損害賠償が決定されていく。具体的損害のほかに,労使交渉では,ストライキにより発生した損害の填補が認められる場合もあろうし,今後の労使交渉を円滑に進めるための解決金の支払が認められることもある。しかしながら,司法判断においては,右のようなダイナミックな労使関係のすべてを捨象したうえで,過去に生起した生の事実を認定することになる。また,何が違法であるかについても,労使間における具体的な状況判断を抜きに,社会通念に基づく判断がなされざるを得ないこととなる。
このような司法判断は,労働者が団体交渉によって,争議権行使により獲得しうべき利益を強制的に奪うものであり,私的自治への介入であると同時に,裁判所による労働基本権の侵害といわざるを得ない。
(2) 最終解決にはならない
違法性の判断は相対的なものであり,労使関係における違法性は当該労使間の団体交渉における労使自治の中で決められる。その結果,右団体交渉においては使用者側が,一般社会通念では違法と判断されないものを全体状況の中で違法と認めることもあろうし,労働者側が全体を解決するうえで必要とあれば,これを黙認することになるかもしれない。更に,賠償額についても,労使の自治的判断で,最終的に決められるものである。
このように,仮に裁判所が,労使間における不法行為について,司法判断を下したとしても,これは労使間の極めて一部の事実に対する判断にすぎず,労使における問題は依然として残されている。裁判所が,ある行為について,違法性を欠くと判断したところで,労働者が団体交渉において,当該労使間において右行為が違法であると主張することが許されないわけではない。すると,司法判断が出されたところで,これは,労使間において,少なくとも金何円の損害賠償債務があると確認する機能を有するのみで,事件の最終的な解決にはならない。
(3) 確認の利益の不存在
(2)で述べたとおり,本件訴訟では,仮に判決が出されたとしても,これで原・被告間の問題が一挙的に解決するわけではない。更に,被告らは,原告らに対し,損害賠償を請求したことはあるものの,これを団体交渉の議題として団体交渉に応ぜよと主張するものであり,団体交渉抜きにして金員の支払がなされたとしても,それでよしとするものではない。故に,被告らは,本件提訴後も,団体交渉抜きの金額の確定は無意味であるということで,金額の提示はしてこなかった。本件訴訟は団体交渉を嫌悪する原告矢吹が団体交渉を拒否するための口実として先制攻撃をかけてきたものにほかならない。このように本件訴えは,訴えの濫用に該当し,確認の必要性,確認の利益が存しない。
(二) 仮に本件請求が法律上の争訟に該当するとしても,その判断は,存在する被告らの損害賠償債権の下限を定めるに留めるべきである。すなわち主文としては,「被告らが,原告らに対し,少なくとも金○○○円の債権を有することを確認する。」とすべきである。
(三) 原告ら及び従業員らの被告山中に対する行為<略>
(四) 被告山中の債権
(1) 労働契約に基づく賃金債権
原告矢吹は,平成7年5月8日に被告山中が職場に復帰して以降,本件協定に反して,前記(三)のとおり,被告山中に対する人権侵害行為を自ら行ったり,原告根岸を始めとする従業員に行わせた。その結果,同年7月24日の時点で被告山中は,これ以上継続して勤務することが肉体的にも精神的にも不可能な状態となり,以後勤務はしていない。しかし,これは使用者の責に帰すべき事由による勤務不能であり,それ以降の賃金についても当然に発生する。なお,被告組合は,被告山中のストライキ通告を行っているが,これは解雇を回避するための緊急避難にすぎないから,右ストライキ通告は賃金不発生の理由にはならない。
(2) 債務不履行に基づく損害賠償請求権
仮にストライキ通告により賃金請求権が発生しないとしても,右ストライキ通告は,原告矢吹の本件協定の債務不履行によるものであるから,被告山中は,右債務不履行により失った賃金と同額の損害賠償請求権を有する。
(3) 不法行為に基づく損害賠償請求権
被告山中が平成7年7月24日以降出勤できなくなったのは,原告ら及び従業員の前記(三)の嫌がらせ行為,人権侵害行為によるものであるから,原告矢吹は,自らの行為については民法709条により,他の者の行為については同法715条により,原告根岸は,自らの行為については同法709条により,他の従業員の行為については同法715条2項により,それぞれ損害賠償責任を負うものである。
(4) 被告山中の賃金又は賃金相当損害金
前記(1)の賃金又は同(2),(3)の賃金相当額として,被告山中が平成11年11月24日現在有する債権の額は,次のとおりである。
ア 月次貸金
時給 1200円
1日 6時間労働
週 5日勤務
月額 15万1200円(21日)
期間 平成7年7月24日から平成11年11月24日(52月)
総額 786万2400円(15万1200円×52月)
イ 一時金
回数 9回(平成7年から平成10年までの夏冬,平成11年夏)
金額 各1か月分15万1200円
総額 136万0800円
ウ 合計922万3200円
(五) 被告3名の債権
(1) 債務不履行に基づく損害賠償請求権
ア 本件協定により,原告矢吹は,被告らに対し,「解雇の撤回について更に関係者に周知徹底」し,「前項の就労日に,所員に対し,解雇の撤回を改めて告知」する(3項)義務を負担した。
右条項は,前年11月に被告山中が職場復帰した際に原告根岸の嫌がらせがあったため,今回の職場復帰に際しては二度とこのようなことが繰り返されないようにとの趣旨で定められたものであり,前年8月の解雇に際しては,ピカソル,近清等の会計事務所の顧問先も関与していたため,「関係者」には,当然にそれらの「顧問先」も含まれていた。
ところが,原告矢吹は,所員に対し,極めて形式的に解雇の撤回を告知したものの,その経緯等を含めた周知徹底を行わず,また,顧問先にはこれすらも行わなかった。
その結果,従業員が被告山中に嫌がらせを繰り返したのみならず,顧問先である近清の会長が,平成7年6月に,原告根岸と共に被告山中に嫌がらせを行うという事態も生じた。
右は明らかに右条項に対する債務不履行である。
イ 本件協定により,原告矢吹は,被告らに対し,「被告山中を含む所員の労働条件の向上に努める」(7項)義務を負担した。
右の「労働条件の向上に努める」との文言は,一般的抽象的な条項ではない。被告組合は,本件協定締結以前から,労働条件に関する要求を出し,当時原告矢吹を代理して交渉にあたっていた小林弁護士は,それまでの違法状態を解消するため,法定の年次有給休暇,無給の生理休暇の付与,無給での健康診断の実施を回答しており,本件協定締結後に具体化していくことになっていた。これを明文化したのが,右条項である。
ところが,本件協定締結後の団体交渉において,原告矢吹は,右回答を反故にして,例えば有給休暇については,法定日数に達しない日数を提示するなど,労働条件を後退させようとしてきた。
ウ 本件協定により,原告矢吹は,被告らに対し,「労働組合の意義を十分に認識して対応する」義務(7項)を負担した。
この文言は,団体要求には適切に応じ,組合員であることを理由とした不利益取扱い等はこれを行わないとの意味を当然に含むものである。
しかし,原告矢吹は,平成7年8月28日に開かれた団体交渉の後は長期にわたって団体交渉を拒否し,また,東京都地方労働委員会(以下「都労委」という。)係属後に再開された団体交渉においても,被告山中の職場復帰を前提に,その条件をどうするかということで話し合いを進めておきながら,最終段階においてこれまでの話し合いの成果を全面的に覆す形で被告山中の退職を求める要求を出してきた。
このような団体交渉拒否,団体交渉の無意味化(不誠実な団体交渉)は,労働組合の意義を十分に認識していたものであるといえない。
(2) 不法行為に基づく損害賠償請求権
前記(1)の原告矢吹の行為及び前記(三)の原告ら(原告根岸は職制である。)及び従業員らの行為は,不当労働行為であるから,原告矢吹は,自らの行為については民法709条により,他の者の行為については同法715条により,原告根岸は,自らの行為については同法709条により,他の従業員の行為については同法715条2項により,それぞれ損害賠償責任を負うものである。
なお,被告対策会議は,矢吹闘争が勝利するまでその闘争を支援することを唯一の目的とした闘争組織であり,法的には法人格なき社団である。不法行為は,権利能力なき社団との関係でも成立し,行為者に損害賠償義務を発生せしめる。不法行為の相手方の権利能力の有無によって損害賠償義務の成否を分ける理由はないからである。この損害賠償請求権の帰属は,権利能力なき社団が団体として権利主体となれないところから,社団の構成員に総有的に帰属することとなる。
(3) 被告らの損害額
原告らの債務不履行及び不法行為に対し,被告らは都労委に対し,不当労働行為救済申立てをせざるを得ない状況に追い込まれ,また,原告らが被告らとの団体交渉を拒否しながら,本件訴訟を提起したため,被告らはその追行を弁護士に委任せざるを得ず,弁護士費用相当額の損害を被った。また,被告らは,原告らに対する抗議行動,情宣活動等を行うことを余儀なくされ,これらの行為のため,多大な労力を費やし,被告組合,被告対策会議においては,その構成員が賃金を失って,これらの行動に取り組む必要があった。これらの争議費用は,原告矢吹の不当労働行為がなければ発生しなかったものであり,原告矢吹の不当労働行為と因果関係を有するものである。また,被告らは,原告矢吹の不当労働行為により精神的な損害を受けた。
債務不履行及び不法行為に基づく損害賠償請求権として,被告3名が原告らに対し,平成11年11月24日現在有する債権の額は,次のとおりである(被告らはこの債権を連帯して有している。)。
ア 弁護士費用
地労委出頭回数 30回
地裁出頭回数 24回
時間当たり 1万3000円
1回当たり 6時間(打ち合わせ,準備等を含む)
総額 421万2000円
(1万3000円×6時間×(30回+24回)
イ 争議費用 260万円(52月×5万円)
ウ 慰謝料 520万円(52月×10万円)
エ 合計 1201万2000円
2 原告ら
(一) 被告らの本案前の抗弁について
(1) 被告らの本案前の抗弁は,提訴後4年以上が経過した,結審直前になされたものであり,明らかに時機に後れ,訴訟の完結を遅延させるものであるので,却下されるべきである。
(2) 1(一)(1)(労働基本権の侵害)について
本件は,原告らが,過去の事実の存否とその法的判断を裁判所に求めているものである。憲法が,労働者に団体交渉権等の権利を保障したのは,労働条件のように,使用者に処分が可能な事項について,労働者・労働組合との交渉で決定される過程を保障したのである。本件のように,過去の事実の存否及び法的評価について争いがある場合には,もはや交渉の余地はなく,公平な第三者である裁判所による判断を仰ぐしかない。また,本件では,労働運動に名を借りた,暴力的な威圧行為が横行していたため,原告らはやむなく本訴を提起したものであり,本件において,裁判所による判断を否定することは,法治国家・法治主義の否定である。
(3) 1(一)(2)(最終解決にはならない)について
不法行為に該当する事実の存否及びその法的評価の最終的な判断者は,裁判所以外にはありえない。裁判所がかかる判断を下しても,被告らはそれに従わないというのであれば,それは,法治国家・法治主義を否定するものであることを自認したにほかならない。
(4) 1(一)(3)(確認の利益の不存在)について
過去の事実の存否とその法的評価は,そもそも労働組合と使用者との団体交渉で決しうることではない。ましてや,被告らの行う団体交渉は,団体交渉に名を借りた,怒号の飛び交う,つるし上げ以外のなにものでもない。このような団体交渉の後も,原告矢吹は,労働委員会の斡旋を申し立て,正当な団体交渉が行われるよう最大限の努力をしたが,被告らの態度が変わらなかったため,やむなく本件訴訟を提起したものであり,確認の必要性,確認の利益は十分に存在している。
(二) 原告ら及び従業員らの被告山中に対する行為について<略>
(三) 被告山中に対する債務の不存在
(1) 労働契約に基づく賃金支払債務の不存在
被告山中は平成7年7月24日以降就労していないから,原告矢吹に賃金支払債務のないことは明らかである。ストライキは労働者に保障された争議権の行使であって,使用者がこれに介入して制御することができないので,ストライキをもって使用者に帰責性があると言い得ないことは当然である。また,被告らは,不就労の理由を原告らの被告山中に対する人権侵害行為のためであると主張するが,被告らの主張する事実についての原告らの認否・反論は前記(二)のとおりであり,人権を侵害する行為はない。
(2) 債務不履行に基づく損害賠償債務の不存在
原告矢吹に本件協定の債務不履行はない。
(3) 不法行為に基づく損害賠償債務の不存在
被告らの主張する事実についての原告らの認否・反論は前記(二)のとおりであり,原告ら及び従業員は嫌がらせ行為,人権侵害行為を行っていない。
(四) 被告3名に対する債務の不存在
(1) 債務不履行に基づく損害賠償債務の不存在
ア 原告矢吹は,本件協定3項のとおり,被告山中らの解雇を撤回したことを全員に伝え,被告山中が初めて出勤した平成7年5月8日には,朝礼を行って全従業員に対してこれまでの経過を説明し,更に被告山中にも十分な発言の機会を与えており,原告矢吹に債務不履行はない。
イ 原告矢吹は,平成8年4月からパート従業員へも有給休暇を付与するようにし,生理休暇,健康診断等を導入するなど,労働条件の向上に努めており,本件協定7項の債務の不履行はない。
ウ 原告矢吹は,平成7年5月8日に被告山中が初めて出勤する前に,組合員である被告山中が他の従業員から偏見を持たれることが万一にもないよう,何度も繰り返して従業員に労働組合の意義を説明した。被告山中自身も初出勤日の朝礼の際には,本件協定の文言を読み上げるなどした。その後も,原告矢吹は,被告組合から団体交渉の申し入れがあったときにはこれに応じ,被告組合から苦情が出たときには,他の従業員及び被告山中双方から事情を聞き,双方に対し適切な注意を与えており,労働組合の意義を十分に認識して対応してきた。したがって,原告矢吹に本件協定7項の債務の不履行はない。
エ なお,原告根岸及び被告対策会議は本件協定の当事者でもない。
(2) 不法行為に基づく損害賠償債務の不存在
被告ら主張の前記1(五)(1)の事実についての原告らの認否・反論は前記(1)のとおりであり,原告矢吹が不当労働行為を行った事実はない。また,被告ら主張の前記1(三)の事実についての原告らの認否・反論は前記(二)のとおりであり,原告ら及び従業員の行為は不当労働行為ではない。
なお,原告根岸は,原告矢吹の従業員であり,そもそも不当労働行為の主体とはなりえない。また,被告対策会議は,権利能力なき社団である以上,同被告に実体法上の権利が帰属することはありえない。
三 争点
1 本件訴えの適法性
2 原告ら及び従業員らの被告山中に対する行為の存否及び趣旨
3 原告らの被告山中に対する債務の存否
4 原告らの被告3名に対する債務の存否
第三当裁判所の判断
一 争点1(本件訴えの適法性)について
1 原告らは,被告らの本案前の抗弁は,時機に後れ,訴訟の完結を遅延させるものであるので,却下されるべきであると主張するが,被告らが主張する諸点は,いずれも裁判所が職権で調査すべき事項であるから,これについて判断することとする。
2 第二の二1(一)(1)(労働基本権の侵害)について
被告らは,司法判断は,労働者が団体交渉によって獲得しうべき利益を強制的に奪うものであると主張する。
しかし,団体交渉は,労働条件等の争いを団体の団結権・争議権等を背景に,交渉技術を尽くし,政策的な配慮も加えて将来にわたる権利関係ないし法律状態を形成しようとの目的及び機能を有するものであるのに対し,訴訟は,当事者間の権利関係ないし法律状態を確定する目的及び機能を有するものであって,両者はその目的と機能を異にするものである。特に本訴で原告らが求めているのは,損害賠償等の債務の不存在の確認であるところ,裁判所がこれについて判断をすることにより,その存否が確定したとしても,それにより直ちに団体交渉等が禁止される効果が生ずるものではないのであって,自主的交渉の余地が残されている限りは,団体交渉を継続し,労使の合意により裁判所の判断とは異なる権利関係を構築することも可能である。したがって,裁判所が判断をすることが労働基本権の侵害であるとはいえない(使用者に労働者主張の債務が存在しないこと,あるいは労働者が主張するより低額の債務しか存在しないことを確認する旨の判決が確定した後の交渉において,労働者が債務の存在や額についての従前の主張に固執するために交渉が行き詰まったような場合には,確定判決の存在が,自主的交渉の余地がなくなったとして使用者の以後の団体交渉応諾義務が否定される際の,一つの判断材料とされることは考えられるところであるが,そのことをもって,労働基本権が侵害されたというべきではない。)。
また,憲法は勤労者の団結権,団体交渉権その他の団体行動権を保障すると同時に,何人に対しても裁判所において裁判を受ける権利を保障しており(憲法32条),後者が前者の行使の前に排除されるものではなく,前者が後者に対して絶対的優位を有することを認めているものではないのであって,この観点からも,司法判断が許されないとの被告らの主張は採用できない。
3 第二の二1(一)(2)(最終解決にはならない)について
判決により債務の存否が確定しても,団体交渉による紛争解決の余地が残っていることは前記2のとおりである。
しかし,自主的交渉の余地のない行き詰まり状態になった場合には,使用者の以後の団体交渉応諾義務が否定されるのであり,この場合には,使用者は判決により存在が確認された以上の債務の履行を求められることはないのであって,その意味で,当該債務に関する当事者間の紛争は判決により最終的に解決するというべきである。
そして,原告らが確認を求めている損害賠償等の債務の存否は,法令を適用することによって解決し得うべき権利義務に関する当事者間の紛争であることは明白であり,かつ,右に述べたとおり,最終的に解決できるものであるから,本件が裁判所法3条1項の「法律上の争訟」に該当することは明らかである。以上と異なる被告らの主張は採用できない。
4 第二の二1(一)(3)(確認の利益の不存在)について
憲法上保障された裁判を受ける権利といえども濫用が許されないことは当然であり,団体交渉を拒否する口実とする目的で訴えを提起することも権利の濫用であって許されないというべきである。
しかし,証拠(<証拠・人証略>)及び弁論の全趣旨によれば,平成7年4月24日の本件協定締結後,原告矢吹と被告らは,労働条件等について団体交渉を重ねていた(後記四2(一)(2))が,同年7月24日のストライキ通告以降,被告らは矢吹会計事務所前で情宣活動を行うほか,原告らの自宅にまで押し掛け,その周辺でビラを配ったり情宣活動をするなどの激しい争議行為を行い,原告らの妻子が怯える事態となったため,原告らは,平成7年10月2日,本訴を提起するに至ったと認められるのであり,原告らが単に団体交渉を拒否する口実とする目的で本訴を提起したとは認められない。
そして,本判決の確定により,損害賠償等の債務の存否は最終的に解決され,不安定な状態は解消されるのであるから,原告らには確認の利益があり,その必要もあるというべきである(ただし,後記6の点を除く。)。以上と異なる被告らの主張は採用できない。
5 被告対策会議の当事者能力
当事者間では争点となっていないものの,当事者能力の有無もまた,裁判所が職権で調査すべき事項であるところ,被告対策会議には当事者能力が認められない。その理由は次のとおりである。
民事訴訟において,法人でないものが当事者能力を認められるのは,「社団(又は財団)」で「代表者(又は管理人)の定めがある」場合に限られる(民事訴訟法29条)。このうち,社団であるといいうるためには,団体としての組織を備え,多数決の原則が行われ,構成員の変更にもかかわらず団体そのものが存続し,その組織において代表の方法,総会の運営,財産の管理その他団体としての主要な点が確定していることを要するというべきである。
これを被告対策会議についてみると,証拠(被告山中,被告対策会議代表者)によれば,被告対策会議は,被告山中と被告組合を支援する目的で,被告組合員や被告山中の配偶者らにより,平成6年11月ころ結成され,構成員20名ないし30名から募る会費で運営され,被告組合の事務所で月2回くらいの割合で被告組合とともに会議を開いている(常時会議に出席している構成員は2,3名である。)が,被告対策会議だけで総会等を開いて独自に何かを決定するということはなく,規約も,代表者その他の役員の定めもなく,財産も被告組合員が会費の徴収等を行っているだけであること,長谷川幸枝は本件協定書に「矢吹闘争支援対策会議 長谷川幸枝」と署名しているが,これは同人が立ち会っていたからにすぎず,同人が被告対策会議の代表者に選任されたこともないことが認められるのであり,到底社団としての要件を備えているとはいえず,代表者の定めもないのであるから,当事者能力を認める余地はないというほかない。
したがって,原告らの被告対策会議に対する訴えはいずれも不適法であり,却下を免れない(被告対策会議の名で債権を主張する者がいれば,主張する個人を被告として訴えを提起するほかない。)。
6 将来の債務の不存在の確認の訴えについて
また,原告矢吹は,復職又は退職までの賃金支払債務のないことの確認をも求めているところ(前記第一の三),本件口頭弁論終結の日の翌日(平成12年2月26日)以降部分は将来の債務の不存在の確認を求めるものである。しかし,これをあらかじめ確認する利益があるとは認められないから,この部分の訴えは不適法であるというほかない(内容的にも,被告山中が現実に復職する場合以外にも,被告山中が復職を申し出たにもかかわらず原告矢吹がこれを拒んだために復職できない場合等,原告矢吹に賃金支払債務が生ずる場合は同原告が想定する以外にもあり得るのであるから,本件口頭弁論終結時には債務の存否を確定し得ないというべきである。)。
したがって,原告矢吹寛の被告山中千織に対する賃金支払債務不存在確認の訴え中,平成12年2月26日以降の債務の不存在の確認を求める部分は却下を免れない。
二 争点2(原告ら及び従業員らの被告山中に対する行為の存否及び趣旨)について
1 第二の二1(三)(1)の事実について
平成6年8月31日,原告矢吹が被告山中及び今野を懲戒解雇した事実は,当事者間に争いがない。ただし,この点について協議した結果締結されたのが本件協定であり,その8項には,解雇に関し,他に何らの債権債務のないことを相互に確認するとの条項が設けられている(前記第二の一4(八))。
2 第二の二1(三)(2)の事実について
平成7年5月11日,原告矢吹が被告山中に髪の色を変えるように話した事実は,当事者間に争いがない。証拠(<証拠・人証略>)によれば,原告矢吹は,被告山中が染めているような明るい茶色は会計事務所のイメージと合わず,顧客の信頼を失うおそれがあると考えたため,被告山中に色を変えてほしい旨話したものであると認められる。
3 第二の二1(三)(3)の事実について
平成7年5月15日,原告矢吹が父親死去を理由に同月19日に開催が合意されていた団体交渉の延期を被告組合に申し入れた事実は,当事者間に争いがない。証拠(原告矢吹)によれば,原告矢吹は,被告組合の石橋の対応が,しかたなく変えてやるといった調子に感じられたので,被告山中に「おくやみの一言くらいあってもいいのにね。」と話しかけたものであり,被告山中を責めたものではないと認められる(<証拠略>及び被告山中の供述によれば,同被告も自分が責められたとは考えていないと認められる。)。
4 第二の二1(三)(4)の事実について
平成7年5月17日,原告根岸が矢吹会計事務所に電話した事実は,当事者間に争いがない。証拠(<証拠・人証略>)によれば,被告山中は,電話の応対が苦手であったため解雇前から電話を取らなくてよいこととされていたが,小嶋が他の電話に出ていたため原告根岸からの電話を取った,原告根岸は予期せぬ相手が電話に出たので,「何で,あんたが出るの?」と言った,被告山中が「小嶋さんが電話中だからです。」と答えると,原告根岸は「じゃあ,保留にして。」と言い,被告山中はそのとおりにした,その後,電話が切れたという事実経過であったと認められる。
5 第二の二1(三)(5)の事実について
平成7年5月22日,被告山中が新聞と郵便を持って来ると,原告根岸が,「あんたは郵便の仕分けをする必要はない。」と発言した事実は,当事者間に争いがない。なお,原告らは,郵便物を一元的に吉田が管理することにしていたと主張するが,吉田は,すべてを自分が管理していたわけではない旨述べており(<証拠略>),原告らの右主張は採用できない。
6 第二の二1(三)(6)の事実について
(一) 証拠(<証拠・人証略>)によれば,平成7年6月5日午前10時30分ころ,矢吹会計事務所に来所した矢吹夫人が,被告山中に対し,「その髪の色だと20歳くらいにしか見えない。」「今野さんは山中さんに仕事を紹介しなかったの?」などと言ったこと,被告山中は,前者の発言に対しては,「よく若く見えるっていわれるんです。」と答えていること,矢吹夫人は,翌6日,前日の発言が誤解させるものであったとしたら謝ると被告山中に述べたことが認められる。
また,証拠(<証拠・人証略>)によれば,同月5日の矢吹夫人の帰宅後,原告根岸は,被告山中に「奥さんに帰れと言ったの?」と言ったこと,ただし,これは被告山中が矢吹夫人に「帰れ。」と言ったような気がしたため,その旨尋ねたものであり,被告山中が否定すると,それ以上は追及しなかったことが認められる。この時に吉田が原告根岸に同調して被告山中を難詰したことを認めるに足りる証拠はない。
(二) 次に,証拠(<証拠略>)によれば,同月5日午後2時から5時の間,原告根岸が,「あんた,その髪,何とかならないの。」「会計事務所でそういう髪の色してるとこ,あると思う?」「皆が不満に思っているんだよ。」「皆を呼んで聞いてみよう。」と言って,従業員を全員呼び寄せたこと,原告根岸が,「そういう髪の色してると,仕事もできなくなるんじゃないか。」,原告根岸及び吉田が,「私も組合に入れるの?」,「ご主人はどういう職場で組合に入っているの?」「石橋は,どういう仕事をしているの?組合から給料もらっているの?」,原告根岸が,「あんたばかり勝手な要求されるとかなわないから,私たちも組合作ろうか。」「何で会計事務所に来たの?他に大きな会社で組合活動やればいいじゃないか。」などと言った事実が認められる。
7 第二の二1(三)(7)の事実について
証拠(<証拠・人証略>)によれば,平成7年6月6日,原告根岸は,被告組合から前日の自分の発言に対する抗議のFAXが届いていることを知り,「信頼できない人に仕事をしてもらいたくない。」と発言したこと,被告山中から原告根岸及び吉田の発言について聞かされた原告矢吹は,右両名に対し,「髪のことは団交で決めるから黙っててほしい。」「仕事はしてもらう。」と言って,被告山中に謝るよう促し,右両名が謝ったこと,しかし,原告矢吹退所後,原告根岸は,被告山中に対し,被告組合からのFAXを持って,「ごたごたして,また金をとろうという魂胆だろう。」「ゴキブリ」「あんたなんかやめてしまえ。」と言ったことが認められる。
8 第二の二1(三)(8)の事実について
証拠(<証拠略>)中には,平成7年6月から7月にかけて,顧客からの届け物を被告山中だけにはお裾分けしなかったとの被告らの主張に沿う部分があるものの,やや曖昧であり,反対趣旨の証拠(<証拠略>)に照らしても,同事実を認定することはできない。
9 第二の二1(三)(9)の事実について
証拠(<証拠略>)によれば,原告根岸が被告山中に,「私たちは,あんたが組合をやめない限り態度を変えない。」と発言した事実が認められる(ただし,被告ら主張の平成7年7月3日ではなく,同年6月30日である。)。
10 第二の二1(三)(10)の事実について
証拠(<証拠略>)によれば,平成7年7月4日,原告矢吹が「こんなにお願いしても髪の毛の色を変えてくれないのか。」と言ったのに対し,被告山中が「これは団交で話し合うことですから。」「黒く染めなければどうなるんですか。」と言ったため,原告矢吹が「協力してくれないなら業務命令を出すしかないか。」と言い,更に被告山中が「業務命令に反したらどうなるんですか。」と言ったため,原告矢吹が「立場上,始末書を書いてもらわねばまずいだろう。」と言ったことが認められる。
11 第二の二1(三)(11)の事実について
証拠(<証拠・人証略>)によれば,平成7年7月6日,原告根岸が,「お前なんかとは仕事できない。」「お前なんか,人を裏切るのも平気だもんな。」「仕事できないのに有給の要求だけはするのか。」「(髪の色を)経営者から注意されたら直すんじゃないの?」「よく事務所にいられるよ,はずかしくないのか?」などと発言した事実が認められる。
12 第二の二1(三)(12)の事実について
証拠(<証拠・人証略>)によれば,原告矢吹は事務所を千歳烏山から新宿に移転することにし,平成7年7月12日から翌13日にかけて引っ越し作業を行ったこと,12日に被告山中が事務所内のトイレ掃除のためトイレの前に立っていたところ,原告根岸が「邪魔だ。どけ。」と言ったこと,また,被告山中が「明日の出勤は10時ですか。」と尋ねたところ,原告根岸が「いや,明日は休業日だから来なくていい。」と言ったこと,ところが,翌13日に被告山中が行ってみると,パートも含めて従業員全員で引っ越しをしていたこと,千歳烏山から新宿の新しい事務所へ従業員全員で移動するとき,被告山中が他の従業員から離れて歩いて行ったところ,吉田が,新宿までの切符を全員に買い与えておきながら,被告山中には切符を買い与えなかった(後日精算した)ことが認められる。
13 第二の二1(三)(13)の事実について
証拠(<証拠・人証略>)によれば,平成7年7月21日の昼休み後,小嶋が被告山中に対し,「組合が昨日,団交したので残業ができず,客に迷惑をかけた。」「矢吹を8人で囲んで団交をやった。」と言い,吉田も「根岸と山中の問題は,個人と個人の問題(組合で取り上げるのはおかしい)。」などと言ったこと,被告山中が午後2時30分ころ「早退する。」と言うと,吉田は,タイムレコーダーが故障中であったことから,早退することを紙に書くよう被告山中に求めたことが認められる。
14 第二の二1(三)(14)の事実について
弁論の全趣旨によれば,平成7年7月24日のストライキ通告に対し,小嶋が「こういう行動は営業妨害」と言った事実が認められる。また,同夜,原告矢吹が,被告山中の自宅に電話をし,頭が冷えるまで顧客のところに出向しないかと提案した事実は,当事者間に争いがない。証拠(<証拠・人証略>)によれば,原告矢吹は,ストライキ中は賃金の支払を受けられないので生活が大変であろうと考えたこと,その間に受け入れ態勢を整えようと考えたことから右のように提案したものであると認められる。
三 争点3(原告らの被告山中に対する債務の存否)について
1 労働契約に基づく賃金支払債務について
賃金は労働の対償であるから,労働者が労務を提供しない限り賃金を請求し得ないのが原則である。ただし,使用者の責に帰すべき事由により労務の提供が不能となった場合には,労働者は賃金債権を失わない(民法536条2項)。ここで,労務の提供が不能かどうかは,社会通念に従って労務の提供が期待しえないかどうかによって判断すべきである。
これを本件について検討するに,証拠(<証拠・人証略>)及び弁論の全趣旨によれば,平成7年7月21日の出来事(前記二13)について被告山中から報告を受けた被告組合の石橋が,原告矢吹に電話をし,「力で反撃する。」と伝えたこと,被告組合は,翌22日の定期大会でストライキを決定し,24日にストライキ通告を行ったこと,被告山中は被告組合の決定に従って労務提供を行わなくなり,原告根岸が退職した後も復職しようとしていないことが認められる。証拠(<証拠・人証略>)によれば,原告根岸は,被告山中に対する解雇の撤回に納得せず,被告山中に対し悪感情を持っており,吉田ら他の従業員も被告らの対応に反発を強めていたと認められ,前記二の原告根岸及び他の従業員の言動は右のような感情に出たものであって,被告山中にとって労務提供がしにくい環境にあったことは否定できない。しかし,使用者である原告矢吹は被告山中を受け容れようと努力していたものであること(前記二7等),原告根岸らの言動に対しては被告組合が抗議を行う等の対応をしていたこと(前記二7等)からすれば,社会通念上およそ労務の提供が期待しえない状況にあったとまでは認められないのであって,むしろ被告山中による労務の不提供は,ストライキという自己の支配領域内にある理由によるもので,自らの判断次第では労務の提供は可能な状況にあるというべきである。
よって,使用者の責に帰すべき事由により労務の提供が不能となった場合に該当すると認められない以上,原則どおり,労務を提供していない被告山中には賃金債権がなく,原告矢吹には賃金支払債務がない。
2 債務不履行に基づく損害賠償債務について
被告らの主張する債務不履行の具体的内容が前記第二の二1(五)(1)と同趣旨であると理解するにしても,原告矢吹に債務不履行があると認められないことは後記四1のとおりである。
よって,原告矢吹に債務不履行に基づく損害賠償債務はない(原告根岸にも右債務はない。)。
3 不法行為に基づく損害賠償債務について
被告らは,原告ら及び従業員の行為が嫌がらせ行為,人権侵害行為であると主張するが,人権というのは,多義的な概念であり,憲法が11条以下で保障している基本的人権の意味で用いているとしても,そこには様々な権利・自由が含まれているのであるから,人権侵害行為というだけでは被侵害利益の主張として不十分である。嫌がらせ行為との主張についても同様である。
また,被告山中の不就労は前記1のとおりストライキによるものであるから,原告ら及び従業員の行為と被告ら主張の損害(賃金相当損害金)との間に相当因果関係があるとも認められない。
前記二で認定した行為のうち特に原告根岸の言動中には,社会通念上許される限度を超えたものがないとはいえないものの,被告らの主張が右のようなものにとどまるものである以上,不法行為の成立,不法行為と相当因果関係のある損害の発生を認めることはできない。
よって,原告らに不法行為に基づく損害賠償債務はない。
四 争点4(原告らの被告3名に対する債務の存否)について
1 債務不履行に基づく損害賠償債務について
(一) 被告らは,原告矢吹には,本件協定3項により負担した「解雇の撤回について更に関係者に周知徹底」し,「前項の就労日に,所員に対し,解雇の撤回を改めて告知」する義務の不履行があったと主張する。
しかし,証拠(<証拠・人証略>)によれば,原告矢吹は,被告山中らの解雇を撤回したことを全従業員に伝え,被告山中が初めて出勤した平成7年5月8日には,朝礼を行って全従業員に対してこれまでの経過を説明し,更に被告山中に発言の機会を与え,同被告は用意した書面を読み上げる等したこと,また,原告矢吹は,被告山中の解雇問題に関係のあった顧客にも解雇の撤回を報告したことが認められるから,原告矢吹に債務不履行があったとは認められない。
(二) 次に,被告らは,原告矢吹には,本件協定7項により負担した「被告山中を含む所員の労働条件の向上に努める」義務の不履行があったと主張する。
しかし,本件協定7項の右文言は抽象的であり,ここから原告矢吹が特定の具体的債務を負担していると認めることはできない。証拠(<証拠・人証略>)によっても,本件協定締結時には,労働条件をどのように向上させていくかについては,今後協議していくことになり,具体的内容を特定しない前記文言としたものであると認められる。なお,右証拠によれば,原告矢吹は,本件協定締結後パート従業員に有給休暇を付与し,生理休暇及び健康診断を導入するなど,徐々にではあるが,労働条件の向上に努めていると認められる。
したがって,原告矢吹に被告ら主張の債務不履行があるとは認められない。
(三) さらに,被告らは,原告矢吹には,本件協定7項により負担した「労働組合の意義を十分に認識して対応する」義務の不履行があったと主張する。
しかし,本件協定7項の右文言も抽象的であり,ここから原告矢吹が特定の具体的債務を負担していると認めることはできない。
(四) よって,原告矢吹に債務不履行に基づく損害賠償債務はない(本件協定の当事者でない原告根岸にも当然右債務はない。)
2 不法行為に基づく損害賠償債務について
(一)(1) 被告らは,まず,前記第二の二1(五)(1)の原告矢吹の行為が不当労働行為であると主張するが,このうち,同アで主張する事実については,労働組合法7条のいずれに該当するとも認め難い。同イ及びウは,同法7条2号に該当する不当労働行為であるとの主張であると理解できるので,この点について判断する。
(2) 証拠(<証拠・人証略>)によれば,平成7年4月24日の本件協定締結以降の団体交渉の実施状況は,次のようなものであったと認められる。
ア 原告矢吹と被告らは,パート従業員に対する有給休暇の付与,生理休暇及び健康診断の有給実施,被告山中の髪の色,原告根岸による嫌がらせ問題等を交渉事項として,平成7年6月2日,同月8日,7月4日及び同月20日に団体交渉を行った。被告組合は,ストライキ通告をしたのと同じ同月24日に東京都新宿労政事務所に団体交渉促進のための斡旋を申請し,同年8月11日及び同月28日には同事務所で同事務所職員立会いの団体交渉が行われた。同月28日の団体交渉終了後には,原告矢吹が都労委に斡旋申請をし,同年9月12日及び同月28日には斡旋手続が行われたが交渉は進展しなかった。そこで,原告らは同年10月2日,本訴を提起し,被告組合及び被告山中は同月6日,原告矢吹を被申立人として,人権侵害行為の禁止,人権侵害行為についての謝罪,慰謝料の支払,同年7月24日以降の賃金相当額の支払及び団体交渉応諾を救済の内容とする不当労働行為救済申立てを都労委に行った。
イ 被告らは,同年10月18日付け書面をもって,原告矢吹に対し団体交渉を求めたが,同原告は,同月24日付け書面をもって,被告らが指定した日時には時間がとれない,被告組合が救済申立てしている事項は都労委で解決したい,都労委の指導を待っている事項については必要があれば団体交渉に応じる旨回答したが,代替日は示さなかった。被告らは,同年12月1日付け書面で再回答を求め,同月25日付け書面でも団体交渉を求めたが,原告矢吹は回答しなかった。
ウ 都労委における審問が終盤にさしかかった平成9年1月,同委員会事務局職員の立会いのもとで団体交渉が再開されることになり,同年3月19日から同年10月20日にかけて9回立会団交が行われた。原告矢吹は,同年10月2日の団体交渉の際,これまでの復職の方向での和解案とは異なる,被告山中はストライキを解除した日に退職するとの和解案を提示した。
(3) 右認定事実によれば,平成7年10月から平成9年3月までの間団体交渉が中断されたことの主たる原因は原告矢吹にあるということができ,証拠(原告矢吹)によれば,同原告には,都労委あるいは裁判所の場で解決したいとの意識があったことが認められる。
しかし,原告矢吹はそれまで被告らとの団体交渉に応じていたが,交渉が進展しないことから,当事者だけの交渉では紛争の解決が困難であると考えて第三者機関に解決の場を求めていたのであって,悪質な意図があって団体交渉を中断させていたものであると認めることはできない。そして,平成9年3月以降は9回の立会団交に応じたことも考慮すると,前記期間の中断をもって団体交渉拒否と断ずることは相当でないし,少なくとも,不法行為の成立を認め,損害賠償を命じなければならないほどの違法性はないというべきである。
また,原告矢吹が平成9年10月2日の団体交渉の際,被告山中の退職を求める和解案を提示したことは前記(2)ウのとおりであるが,長期にわたる団体交渉の後に同被告を復職させることが困難であると判断し,右のような案を提示したことをもって,直ちに不誠実な対応であるということはできないし,他に,原告矢吹が意図的に不誠実な団体交渉を行ったと認めるに足りる証拠はない。
(二) 被告らは,また,前記第二の二1(三)の原告ら及び従業員らの行為は,不当労働行為であると主張する。
(1) このうち,原告矢吹の行為は前記二1,2,3,10及び14のとおりであるが,発言の内容・趣旨及び発言に至る経緯等に照らすと,組合を嫌悪して,あるいは組合運営に介入する意図でしたものであるとは認められない。
(2) また,被告らは,原告根岸の行為が不当労働行為になると主張する前提として,同原告が職制であると主張するが,証拠(<証拠・人証略>)によれば,原告矢吹は,原告根岸に顧客との関係で「監査室長」と名乗らせていた時期があり,被告らとの団体交渉の際にも,「副所長格」であると紹介したが,事務所内で他の従業員に優越する地位,特に労務管理上の指揮監督権を与えてはいなかったことが認められる。また,前記二で認定したところによれば,原告矢吹は原告根岸の被告山中に対する言動を抑止しようとしていたと認められるのであるから,原告根岸が,使用者である原告矢吹の意を体して各言動を行ったものでもないというべきである。したがって,原告根岸自身が不当労働行為の主体となり得ないのはもとより,原告根岸の行為について原告矢吹が不当労働行為責任を負うものでもないというべきである。他の従業員の行為についても同様である。
(三) よって,原告らに不法行為に基づく損害賠償債務はない。
五 結語
以上の次第で,原告らの被告矢吹闘争支援対策会議に対する訴え,及び原告矢吹寛の被告山中千織に対する賃金支払債務不存在確認の訴え中,平成12年2月26日以降の債務の不存在の確認を求める部分は,いずれも不適法であるからこれを却下し,原告らのその余の請求は理由があるから認容することとし,訴訟費用の負担につき民事訴訟法61条,64条,65条1項本文を適用して,主文のとおり判決する。
(裁判官 飯島健太郎)